「2015年07月」の記事

高齢者の介護放棄3(セルフネグレクト)

2015年7月24日 / 彷徨う人

 独立して遠くに住み、毎日仕事に追われている息子。
 遠くに嫁ぎ、家事や孫の育児に明け暮れる娘。
 子どもたちの足を引っ張りたくないとの思いで、夫婦だけで、あるいは一人で頑張っている親が、人知れず、自分の身の周りのことができなくなってしまっているケースがある。

 いつの間にか、調理はしなくなってスーパーで出来合いのものばかり買って食べるようになり、現金を使わなくなって日常の小さな買い物もすべてカードで済ますようになり、洗濯をしなくなって着替えの下着はすべて新品を購入するようになっていても、年に一度か二度しか実家に戻らない息子は、この変化に気づかない。
 実は、いつの間にか、「調理はしない」のではなく「調理はできなくなった」のであり、「便利だからカードを使っている」のではなく「計算ができなくなったからカードを使っている」のであり、洗濯機の使い方も風呂の沸かし方もわからなくなっていたのだが、時々親を訪ねている娘でさえ、それに気づくのはずっと後になってからだ。

 やがて、毎日、寿司や天ぷらなど好きなものだけを買って食べるようになり、食べ残すととりあえず冷蔵庫に入れ、冷蔵庫に入れたことを忘れてまた買うから、冷蔵庫には同じものが大量にたまって、奥の方から腐り始める。たまに冷蔵庫から食べ残しを取り出すことがあっても、レンジの使い方がわからないので温め直すことなく冷たいまま食べている。
 時々若い友人に連れていってもらっていたスーパー銭湯にも行かなくなり、着替えも買わなくなる。
 要不要の判断は全くできず、物を捨てられないため、家には不要品やゴミが増え、足の踏み場がなくなり、気づくと、ゴミ屋敷的に・・・。   
(ただし、いわゆる「ゴミ屋敷」は、認知症とは別の精神障害(ホーディング障害)によるものが多いらしい・・・。)。

高齢者の介護放棄2(介入拒否)

2015年7月22日 / 彷徨う人

 発達障害や精神疾患のある我が子の行く末をずっと心配してきたのに、結局、見るべき備えができないまま年を取った親が、子の監護ができないほどに衰えてしまった結果、傍目からは、子が親の介護を放棄していると見られるケースがある。
その高齢の親が、介護や診療を要する健康状態にあることが明らかであるように見えるのに、同居する子が、介護認定・介護サービスや診療を親に受けさせることを拒み、役所職員・包括支援センター職員・民生委員らが親との面談をねばり強く求めても、頑なにこれを拒んで、その結果、親子ともども引きこもりの状態になっているようなケースである。

 おそらく、同居する子からしてみれば、長年親子だけで生活してきたし今も特に支障のない日常生活を送っていると思っているのに、そこへ他人が無理矢理家の中に入ってこようとしているのであるから、それだけで、とても耐え難いことなのだろう。また、介護サービスや診療を受けても、介護保険や健康保険の適用によってさほどの経済的負担なく(あるいは生活保護によって経済的負担なく)、親子ともに、より健康的で積極的な生活が送れる可能性があるのに、子は、容易にそのことに思い至ることができず、逆に、「たとえ少額の負担であっても、新たな経済的負担が生じること自体到底受け入れることはできない。」と考えているはずである。
 よって、役所職員等は、図らずも介護者となった子の気持ちを汲みながら、優しく辛抱強く何度も説明し、正しい理解を促し、親が適切な介護サービスと診療を受けられるように誘導しているが、しばしば難航している・・・。

高齢者の介護放棄1(徘徊放置)

2015年7月13日 / 彷徨う人

 高齢者が認知症を煩い、頻繁に徘徊するようになった後、同居の家族が徘徊の対応に疲れきった結果、高齢者の介護が放棄されるケースがある。

 認知症高齢者が徘徊するのには、もちろん理由がある。
 高齢者は、認知症により、今いる場所が何処だかわからなくなり、また、今が何時かがわからなくなる(見当識障害)。その結果、何らかのきっかけで家を出てしまうと、まもなく帰り方がわからなくなって徘徊してしまうこともあるが、この徘徊はそれほど深刻な問題ではない。 問題は、夕方になり日が暮れてくると始まる徘徊である(夕方症候群)。この徘徊は、引き留めようとすると激しく抵抗されることも多く、対応が困難である。多くの場合、(見当識障害のために)今いる場所が自分の居場所であることがわからなくなり、かつて住んでいた家に帰ろうとして徘徊しているようだ。ときには、子ども時代にまで時間を遡った上で自分の親が待つ家に帰ろうとしたりする。よって、そのとき、同居の家族は家族と認識されていないから、徘徊を阻止しようと説得しても困難で、無理に説得しようとすると火に油を注ぐ結果となる。その徘徊の意味を理解し、気持ち(たとえば家に帰りたいという気持ち)に寄り添いながら一緒に歩くと、やがて納得して徘徊をやめるが、これが毎夕繰り返されると同居の家族は音を上げるほかない。 やがて,徘徊の外出を見逃すことが増え、警察に保護されることが増え、やむなく、徘徊できないように家に閉じこめるようになるが、この状態に至れば、もはや自宅での生活は困難になっていると言うほかない。

 高齢者にはホームに入居してもらった上で、家族がそこへ頻繁に訪問をするという形に切り替えないと、共倒れになってしまう。自宅での生活を願う高齢者の気持ちを思えば、ホームに入居させることはとても辛いが、余裕を失った家族に優しくしてもらえない高齢者は、もっと辛いのかも知れない。

乳幼児虐待の冤罪

2015年7月8日 / 驕る人々

 児童相談所長には強大な権力が与えられている。すなわち、児童福祉法33条の「一時保護処分」である。これは、乳幼児及び児童への虐待が疑われるとき、児童相談所長が、その裁量で、いち早く、子どもを親から分離して保護することができる行政処分である。正しく運用されている限りはすばらしい制度であると思う。実際、これによって多くの子どもたちの命が助かったはずだ。
 しかしながら、物言えぬ乳幼児の保護については難しい問題がある。すなわち、子どもの言葉や表情から虐待の有無を推測することが困難であるが故に、虐待があったと事実誤認されるケースが相当数発生しているという点である。
この点、児童相談所は「母子が離れて生活することによるデメリットは、万が一の命の危険の回避というメリットと比べれば取るに足りない。」と言って事実誤認を恐れない(一時保護の後の施設入所に承諾を与える裁判所も同様の態度。)。しかし、これは、「愛着障害」という危険を知らない、あまりにも浅はかな考えである。

 おおよそ満1歳から3歳までは、子どもの成長過程において極めて重要な時期である。この時期、子どもたちは、母(または母に代わる特定の保護者)を安全基地としながら、時々母から離れ、まず、母と自分が異なる存在であることを知り、次に、安全基地を持っているがゆえに、母が一時的にそばにいなくても母の視線を意識した行動(悪いこと・危ないことをして母に叱られたくないとか、良いことをして母に誉められたいとかいう気持ちによって抑制される行動)がとれるようになるが、この時期にこの過程を経て成長しないと、自分の気持ちと他人の気持ちを区別できない子どもになったり、自分の身にふりかかる危険に鈍感な子どもになるおそれがあるからである。そうなると、その子どもは、少年時代を極めて不安定で危険な環境下で過ごすことになるが、その悪影響が明らかになるのは10数年後のことであるから、児童相談所長は、虐待の事実誤認の責任を、その子どもに対して取ることができないのである。
 よって、児童相談所長は、このことを肝に命じ、乳幼児の分離保護には最大の注意を払わなければならないし、その裁量の逸脱の有無を判断する裁判官も、同様であって、安易に児童相談所長の事実認定を追認することがあってはならない。

親の介護と女性

2015年7月8日 / 彷徨う人

 ようやく育メンは増えたけど、親の介護では、まだまだ多くの女性が犠牲になっている。共稼ぎに理解を示す男は増え、育メンともてはやされるようになったが、実親の介護は自分がするものと考える男はどれくらいいるのか。
「妻(妹)がやってくれるかも。」と思ってないか?

いや、「妻(妹)にやってもらえ。」と言う人々の存在がそれを妨げていて・・・そちらが先決問題か。

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